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他人の釜のメシを食う の時代 第八話 

 

集金問題もすでに忘れかけた頃、またアクシデントが勃発した、ある日の夕刊配達時のことである。いつものように配達中、栄から上前津に向う大通りを、我がケッタ(自転車)は颯爽と暴走していた。睡眠不足と慣れてきた最近の走行は歩道も車道もなく早く配り終えて夕飯に在り付くことしか頭になかったようだ、その頃は勿論ヘルメットや自転車走行帯も無く、慣れと油断の頃である、現在の自転車であまり見ることはないが、この頃の私のケッタには右側だけバックミラーが付けてあった。大通りの左側の配達をほぼ終えて、右側に移り配達しながら戻ろうとしていた、いつもは横断歩道を渡り、新聞店に戻りながら配達を続行するのだが、その日に限り車道を右に右に移り、中央分離帯のコンクリートを乗り越えてのユウターンを結構しようとしていた、車道に出ようと後ろも見ずぬに、ケッタのハンドルを切った、その瞬間である、バックミラーの丸い鏡に、すでに今でもクッキリと覚えている茶色(土色)の自動車のフロントがアップで見えた、瞬間ダメだと思った、そして飛んだ。自分の体が、飛んでいる時間はとても長かった、5〜6分飛んでいた感じだった、飛びながら思った、「俺、これでダメになるんだな」なが〜いながい時間飛んで、後から解ったのだが、左側の歩道に着地していた、両肩から腰までの背中の皮が剥がれていた。ついていたのは、その車の運転手さんが病院まで運んでくれていたことだ。上半身をミイラのように包帯を巻かれ、処置が終わって中待合で待っていたとき、やけに下半身に他の人の視線を感じた、そのときやっと気が付いた履いていたジーパンが、臍したの部分から尻の上まで見事に裂けていた事だ。(パンツ丸見え)暫くして新聞店のご主人さんが現れて、の第一声「どこまで配達は済んでいる?」である。そう、それから他の地区を配達(終了していた)していたみんなが現れ、事故地点に散乱していた夕刊を拾い集め配ってくれた、これも後から聞いた、悪いことをしたなと思った。

そして新聞店まで戻るとき、普段使用していた自転車を見た(申し訳なくて、ケッタとは書けない)前輪と後輪がサドルの下に曲がり込み、哀れな姿になっていた。そして店まで戻り、うつ伏せでミイラ男は横になって、この時になり全身が震えた。その後夜になってご主人が声をかけてくれた、「大変だったな、明日学校休んでゆっくりしてな」(密かに僕も期待していた、「明日、配達休めるなと」)ところがである。「配達は穴開けるなよ」のフレーズが続いた。次の日は痛い背中を背負って、いつものコースを走って新聞を配った。痛かったよ〜

他人の釜のメシを食う の時代 第七話

 

新聞配達を始めて少ししてから、自分の配達地域の、毎月の新聞代の集金も任されるようになった。朝夕刊配達時に集金が出来れば良いのであるが、中々ままならない。集金は集金で朝夕刊の間で行う事になっていた。つまり、トンカツ屋さんの貴重なバイト代が一日二日なくなるのである。
そう、当てにしているまかない昼食も、食べられなくなってしまうのである。すんなり一日で終われば良いのであるが、配達先の都合で集金出来ないときがある、ときには述べ二・三日もかかる。昼食が無くなるのは、辛いものである。その頃には、トンカツ屋さんバイトもご主人さんにバレていたが、何かあっても自己責任ということで認めてもらっていた。あるとき突然ご主人さんに呼び出された、その月の集金の額が足りないというのである。十円や二十円ではないというのである、何故、疑いが掛ったのであろう。「今謝れば許してやる」といきなり来たので、こちらもカチンときた。いくら腹が減っても、他人様のお金に手をつけるような真似は絶対にしてはいない、それは我が矜持でもある。我が子にもそれだけは、躾けたつもりだ。しかし、何回も同じように繰り返されたのが悔しかった。最後には、「正直に言わなければ、飯は食わさん」とまで言われた。朝飯・夕飯のことである。だが絶対におかしな真似はしていないので「疑うなら、食えなくてもいい」と言ったのを今でも覚えている。
勿論、仕事は今まで通り続けるのは、当然です。だが、トンカツ屋の仕事は止められた。「学校は休むなよ」とまで言われた。ここからは断食勝負だと腹を括った。朝刊を配り、学校に行き、戻ってしばし大の字、そして夕刊を配り直ぐにベットへこの生活サイクルを続けた、すぐに、手と足の指先から痺れが始まり、頭は何かぼんやりしている。丸三日間この状態で耐えた。しかし、私という若者はここでねを上げた。ギブアップである。
ご主人さんに「やはりお前かと思われても良いから食べさせてください」と、そして、やっぱりメシは美味いと思った。そこから二、三日して、
ご主人さんが「俺の計算ミスだった、悪かった」とを証した。嬉しかった、(疑いがはれたこと)。悔しかった(後少し頑張れなかった自分に)
でも、それから、ご主人さんの自分への態度が変わったような気がした。そして、今になって思うのは、「集金額はいくら足りなかったのですか?」
と聞いておけばよかったと、聞いてどうなるものではありませんが、ご主人は既にお亡くなりになられているのです。
まだまだ続きはありますが、次回とします。 続く!

 

他人の釜のメシを食う の時代 第六話 

新聞奨学生生活が始まり、他のバイトにも慣れた頃、皿洗いバイトで、仕事が増えました。出前の仕事を頼まれるようになったのです。食堂の自転車に乗り配達しました。食べ物ですので、新聞の配達よりも神経を使いました。岡持を片手に持ちできるだけ食品に衝撃を与えないようにと、ある意味新聞の配達よりデリケートでした。出前をするようになって一ヶ月ぐらいしたとき、まだ一度も配達したことのない、ビルの一室への配達を指示されました、何事もなく無事到着しドアを開けたとき、「あっ」、と思いました。その事務所と思われる部屋には電気も付いておらず、部屋の奥に向かい合わせに置かれていました、事務机がおかれ片方には中学生と思しき男の子と三十歳越えぐらいでスキンヘッドの男性が座っていました。
近づいていくと、スキンヘッドの男性の方がいきなり私に近づいてきて、胸ぐらを鷲掴みにし、「テメー、オセーンだよ」「ウチの坊ちゃん気がミジケーンダヨ」と言われました、何も言い返せず、岡持の中の、食事を置いて、何も言わず帰ろうとすると「これ要らんのか」と一万円札をつかまされました。店の方で預かってきたお釣りを渡し逃げるようにそのビルを後にしました。
店に戻り、料理長に事の顛末を話すと「わかった」と言われ、その後すぐ料理長が店のスタッフに向け「あそこへの出前は俺しかダメだって、いったろう」と怒鳴りました。私は何が起きているのか理解できずにいましたが、思ったとうりの「その筋の方でした」、私に出前を頼んだのは私より後に店で働き出した女の子三人(九州からその店に就職したウエイトレスさん)の内の一人で、その辺の内情はわかっていなかったようです。
その子が涙を流していたのを覚えています。その時の私はというと、怖いやら、眠いやら、「まだ夕刊配達あるよー」の気持ちでした。
しかし、皆んなこうやって社会人として大きくなっていくんだな、と、勉強になった気持ちでした。
まだまだ続きはありますが、次回とします。 続く!

 

他人の釜のメシを食う の時代 第五話 

目ぼしいバイトも見つからぬなか、ある日、夕刊を配達していると食堂の扉に、皿洗いと出前の募集の張り紙があり、日時の条件の内容も、昼の
十二時から三時までの三時間とあり、因みに時給は三百円。まさしく渡りに船、夕刊の配達スタートが午後四時、しかし、専門学校の終了時間が十二時で皿洗いが十二時開始、学校が終わる時間と同時に皿洗いが始まるということになる。学校からの移動時間がかかる。かからなくても、「どこでもドア」の世界だ。どうしようも無かったので、当たって砕けろとばかり、張り紙を見つけた足でその⚪︎⚪︎食堂の中に向かった、時間的に満員の時間帯でも無いようだった、店主とおぼしき、中年のおばさんが私(当時私は十八才)の話を聞いてくれて、驚いた、主婦ぐらいか、もう少し高齢の方が応募してくると思っていたようだ、やはり年齢と時間の問題で即答をいただけない。すると調理場にいたコックさんが「私が面倒見ますから、大丈夫ですよ」と声を掛けてくれた。そして、働く時間も十二時三十分から午後三時半までと決めていただいた。そしてやはり店主さんだった女性の方も了解してくれた。また運が良かったのは「店で賄いの昼ご飯も食べていって良いよ」と言ってくれたことだ。昼食は抜きと覚悟していたので、万歳だ、嬉しかった。早速明日から働くことにした、新聞屋さんには、仲間も含めて内緒にしておいた。新聞社との契約では他のアルバイトは禁止されていた。分かってはいたが、背に腹はかえられぬというやつである。
次の日、学校から帰り皿洗いに出前にと考えながら店に入った、いきなり奥に連れて行かれ、白衣と着替えさせられた、帽子も被りすぐに、担当の
シンクの前に長靴と履き替え、やり方を教わりながら、実務開始である、トンカツ屋さんだったのでお皿、お椀、箸、スプーン、グラスにフオーク
を洗う、食べ残しの野菜や肉は洗い流し、排水溝に流す、すると排水溝の中で食べ物を砕く刃物が周り、入って来る物を砕く。
そこで問題になるのが、グラスである「グラスだけは排水溝に流れ込み易いので、もし流れ込んでも、絶対に手で追うな、グラスは割れても良いから」と、言われた。手が入ろうものなら手は見事に粉砕される。「これはぜったいに護れ」とも言われた。怖いと思ったが後には引けない。
それと困ったのが厨房の床が長靴を履いていてもツルツルと滑る、よく見るとコックさんは高下駄を履いていた、あれで滑らない、プロが慣れれば
滑らないそうだ。
まだまだ続きがあるが、次回とします。 続く!
 
                             

 

他人の釜のメシを食う の時代 第四話 

 

さて、学校から帰り、すぐ自分のベットに入り眠ります、もっとじっくり寝ていたいのですが、午後二時には目が覚めます、そうです、お腹がすいて寝ていられません、昼食は販売店で出ませんから、近くの食堂に食べに行きます。自腹です。こんな事がありました。

財布の中に、二百円しかありませんでした、当時二百五十円した中華飯が食べられません、ポケットの中を探し、自分の机の引き出しをひっくり返しましたが五十円玉が出て来ません、仕方なく、二百円あれば食べれる、ラーメンを食べに走りました、三時になれば夕刊が届き仕込みが待っています。そのときの別の人が食べていた中華飯の上に乗せられていた、さくらんぼの赤が今でも忘れられません。

他の販売店のメンバーも、同じような悩みを抱えていました。ある日、夕刊も終え夕食もガッチリ食べてから、みんなで、空腹の二〜三時間を使い稼ぐ方法を話し合いました、最初に実行に移したのが、「コーラ瓶を十円に」替える作戦です。その作戦はこうです、当時、コーラ瓶を飲み干し、購入した店に空瓶を持って行くと、十円玉に替えていただけました、偶然ですが、コーラなどを販売しているお菓子屋さんが、新聞販売店の道向に

ありました、その店の裏側に、新聞販売店がある格好です。そしてその店の裏側にコーラなどの空瓶を置いてある木箱が並べてありました。そうです、その空瓶を箱から抜き、店の表にまわり十円玉と替えるのです、交代でこれを行い続ければ(バレない程度に)一日に百円ぐらいにはなりました。後ろめたさはありましたが、背に腹はかえられぬというやつです。しかし、店のおばさんは、わかっていて、騙されていてくれたようです。

高校を卒業したとき、「仕送りは要らない」と啖呵を切らねばと思いました。

あとは、パチンコ屋さんの玉拾い、をしてみましたが、これは見つかり、ツマミ出されました。

これらはまだ序の口で、他にも色々考え、実行しましたが、長くは続きませんでした。体力的パフォーマンスが悪すぎました。

あとは各個人で作戦を展開していくことになります。しかし警察のお世話になるようなことはしていません。

しかし、これだけで親に泣きつくような真似はしません。

次の話は、違う苦しさのお話を書きます。 

他人の釜のメシを食う の時代 第三話 

その頃は専門学校といっても名古屋市中区栄(当時)の高層ビルのワンフロアーを4教室とマシン室、加えて学校の事務室になっていた。クラスは、卒業まで二年・一年生が、平日の九時から十二時のクラス・午後一時から四時のクラス・五時から八時のクラスで各三時間ごとに二つの教室を使い、後の二教室を同じ時間分けで二年生(アドバンスコースと呼ばれた)が使用していた、マシン室には、ある電機メーカーのニアックN2200と言うコンピュータが一台と2400フィートの磁気テープが2デッキ・大型デイスクドライブが一台・そして紙テープライター(ベリファイ可能)が3〜4台備えられていた、本体(N2200)は一度に3〜4本のプログラムが同時に稼働できたので、プログラム作成などの課題が一度に、3〜4人分処理できたが、いつも満員だったような気がする。つまり教室で座学、マシン室で実技を勉強できた。
 しかし、同じ新聞店で働いていた3人(私も含めて)は座学のときは睡魔との戦いで、よく居眠り(ぐっすりと)をしていました、あっ、と、思って頭を上げると、同じ新聞店のジャンパーの二人は机の上でスヤスヤ状態でした。教員からはもう見捨てられていたようで、特に注意はありませんでした。授業を終えると栄の地下街を走るように、新聞店に帰りました。そうです、私たちのクラスは昼(十二時)に終了です、そして、夕刊の配達は午後四時からです。この三時間ほどの自由時間は私たちには、物凄く貴重な時間です、眠りたいし、とにかく体を横にしたい。そんな思いでいっぱいでした。アルバイト代は奨学金の名のもとに吸い上げられ、朝食を食べただけで、昼飯を食べる時間はありません、腹を減らした青年たちは、早く夕刊を配り終え、夕食にありつくのだけが頭にあり、他のことは、とりあえず考えられませんでした。
それでも頑張れたのは、周りにいて、同じような生活をしている友達がいたことだと思います。
しかしこれからの話になるのですが、もっと厳しい生活が私を襲います、まったく嘘のような本当の話です。

第四話は、そんな本当の生活の話を、新聞配達後の、本来の目的、等について書きたいと思っています。

追伸
今年(令和六年)から、私の住んでいる浜松市の区名が、行政区変更に伴い変わります。(令和六年から区名が、西区から中央区に替わります)よろしくお願い致します。住所の変更(区の変更だけ)だけです。

 

他人の家のメシを食う の時代 第二話 

 

私が奨学金制度で働いていた当時の新聞配達は、年間の休日(朝刊も夕刊も配達の無い日)は二日間だけしか無かった。元旦の次の日(一月二日)と、秋分の日の次の日だった。何故この日だったかと言えば、元旦も秋分の日も新聞社が休みで、新聞の作成がなかったからだ。翌朝に配るものが無いのだから休みだ。

この二日間は、必ず帰省した。可哀想なのは沖縄からの友であった。彼らは一日間の休みだけでは帰省するのは無理だ。彼らは卒業するまで、新聞店のあった名古屋を離れることはできなかった。辛かっただろうと思う。

新聞配達といっても、いろいろな仕事がある、配達は勿論、配達前に仕込みがある、配る物は一種類だけではない、本誌は勿論、スポーツ新聞、雑誌(毎日ではない)そして強敵は広告の何種類かである、加えて各お客さんによって色々と注文がある。一番多い注文は「広告はいらない」などだ。広告の要らないのは、喫茶店、等の店舗、企業などが多かった、それらの条件や一部だけでいいお客さん、また、企業などは何新聞は何部、何新聞は何部等との注文がある、大きな企業は同じ新聞を百部またそれ以上の注文もある、それらを加味し、新聞店の仕分け台の上に、広告も種類分けし、一軒単位に組み上げていく、並べた順に、各新聞の部数を差し込んで組み上げて行く、勿論組み上げる順番は配る順番である、だから一部でも飛ばしたり、一件でもとばしたら、組み終えた後に、大変・大変困ることになる。勿論予備は持って出るのだが、予備は破れてしまったり、濡れたり汚れたりした時のためだ。また組み上げるには、配達の順番、配達のルートを自分の配達エリアは最低限覚えておかなければならない。

そして自転車の前カゴと後部の荷台に括り付け、絶対落ちないように、そして、一軒づつスムーズに抜けるようにして尚且つ、必要においては肩からゴム紐と新聞を入れる丈夫な布を袈裟がけにしそこにも新聞を差し込んで、朝刊の自転車は出発をする。最初の頃はふらついて自転車がまともに進まない事もあった。こうして一年中、名古屋市内を駆け回ることになった。

まだまだはじめの一歩の段階だ。因みに大体一人、二百軒程、所要時間は新聞を組み始めてから、自転車が空で帰るまでの二時間ほどの朝である。

 

第三話は、 新聞配達後の、本来の目的、学校への通学等について書きたいと思っています。

                                          

 

他人の家のメシを食う の時代 第一話 

 

突然ですが、タイトルを上記のようにし、(警備業界に迷惑のかかる部分があるといけないので)、自分の社会人一年目からを書かしていただきたいと思います。
生まれ故郷の高校を卒業し、当時興味のあったコンピュータ関係の専門学校(名古屋電子計算機専門学校)に入学しました、入学金、月謝(正確には年謝)は全て(自分で変な言い方ですが、)身体で(働いて)月払いで払いました、もっと正確に言いますと、当時、ある新聞社の奨学金制度があり、通う事になった専門学校に新聞社が一年分の年謝を払い、働く事が決まっていた新聞販売店が、毎月私のバイト代から天引きで新聞社に収めていました。もうお気付きでしょうが、専門学校も新聞社もお金の取りっぱぐれがなく、新聞販売店はお金の取りっぱぐれもなく、新聞配達という労働力の確保が出来ます。これが私の経験した(身体で払う)奨学金制度でした、学生は新聞配達を卒業まで続けなければならず。学校や会社などは全てウィンウインの関係が築けます。この制度は学生たちの実家の家計も助けていたのかもしれません。
最近、ニュースなど奨学金の話を聞きます。(払えないから行政が援助するという様な)どこかのバランスが崩れている感じがします。
それはさておきとして、私の様な学生は当時販売店に同居して、販売店(新聞店の一家も住まいする民家)には旦那さん夫婦・息子さん夫婦・他に十名近くおり、大学生・専門学生・高校生などがいました。私たちは、販売店の二階の全体で、全員が壁に向けて机が与えられており、また食事はご主人さん家族が住んでから、我々が頂きました、昼はみんな学校なので、朝食(朝刊配達後)と夕食(夕刊配達後)に、無料でした。新聞社の予算の中から出ていたようです。
この年は、沖縄が日本に返還された年だったと思います、同期仲間の中に三、四人沖縄県人の方が見えました。よく一緒に銭湯に通いました、二、三日してから気づいたのですが、彼らは銭湯の度に一万円札で支払いをしていました。不思議に思い訳を尋ねると、円の金額の金種別の価値をよく理解していませんでした、そうとわかった後、彼らに、それぞれの効果や紙幣の価値を説明してあげました。良く分からず心配だったら兎に角このお金で払えと一万円札を教えられてきたようです。それからは分からないことはどんどん聞いて下さい、と言ってあげた思いがあります。

第二話からは、実際の 新聞配達 について書きたいと思っています。
 

単身赴任時代 第一話 あの夜に発報  田中 直心

 

 

私は若い頃から警備員をしていた。警備と言っても、色々な任務がある。最初は名古屋の車デイラーでビップの警護に、次に浜松の自動車工場で、常駐警備をした。*常駐警備とは、文字通り、常にお客様の会社の警備室に朝の八時から翌朝の八時まで、二十四時間いて警備関係のいろいろな仕事をすることです。そのほかに、個人のお客さまなどの危機に対応する。パトロール隊。その他数々ありますが、お祭り、儀式、などで警備にあたりつつ行進する儀礼隊などもあります。

常駐警備の中でも色々な任務があります。

入出管理:お客様や社員の工場からの出入り(社員さん達の、出退勤も含めて)・受付・車の出入り等、勿論、人・車だけでなく、入庫する、出庫する荷物等のチェックを含めて、入ってもOKかNGか、要は入っていいかダメかの判定をする。

その他:警備契約地巡回・火報対応、まだまだキリはありませんが、第一話のサブタイトルに話を戻します。

 

 五十歳の時辞令が発令された(揉めに揉めた辞令だが、その事についてはまたの機会に)その日に沼津支社員となり五年A社の派遣隊員となった。五年ほどしてから、別の覇権隊に異動を命じられ、色々な病院で使う薬を作る、元となる元液を作る工場の常駐警備隊に配属された、(その派遣隊で、十四年間勤務することになったのだが。)

何年目かの勤務の日、この日はある意味天気も良く、仕事の流れもよく深夜勤務の時間帯を迎えた、特別残業で遅くなる社員さんも無く、深夜一時頃には警備室の入出管理パソコンの画面は残人員はゼロ・各棟・各室の施錠も緑一色に染まった、無事施錠も済んでいた、後は朝を迎えるだけだと思いながら座哨(決められた椅子に腰掛け辺りの警戒にあたること)していればと思っていた、その時である。研究棟の1階の部屋人感センサーがけたたましい音で発報した、仮眠中の隊員を緊急目覚まし内線で、叩き起こし短い申し送りを行い、警戒棒を手にし現地に走ったその途中なぜだを繰り返しながら走った、火報なら分からぬでもないが人感センサーである、人が入り込んでいれば複数かもしれぬ、それならそれで警棒で戦うのみだ、多少腕に覚えはある。現着の無線を警備室に報告し該当の部屋に入ろうとしたが、施錠はしっかりされていて、警備室のパソコン操作で開けてもらった。入室すると部屋の明かりは自動的に点灯した、人感センサーの発報順に歩を進めたいくつかのパーテションを開けついに、発報の主がわかった。電動自動掃除機ルンバが三台床掃除の真っ最中だった。前もって警備室に連絡はなかったが、ルンバを動かす時間設定の間違いと解った。

その時は、とりあえず三台とも警備室まで報告書も書かないといけないので同行を願った。 嗚呼 怖かった。

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